(V.キャンベル編『神に捧げた生涯~婦人宣教師ロテー・ムーンの伝記』より)
ロティの誕生 <1840年>
1840年12月、エドワード・ハリス・ムーンとその妻アンナ・マリアとの間に、三番目の子どもが生まれ、シャーロット・ディグスと名づけられ、「ロティ」という愛称で呼ばれました。
ロティは陽気な、いたずら好きの子どもで、青い目をくりくりさせ、長いさげ髪をそよ風になびかせながら、犬を連れて散歩に歩く姿を周囲の人たちは喜びをもって見守っていました。
彼女の遊び友だちは犬ばかりではありません。兄のトマス、姉のオリアンナ、妹のサラとメリー、それに弟のイサクと末娘のエドモニアがいましたし、またヴューモントの家から5マイル離れた所にいとこも住んでいたので、毎日が楽しくて退屈することなどはありませんでした。
12歳のロティ <1852年>
ロティはヴューモントで成長していきました。母は彼女の心に宗教的真理を植えつけようとしましたが、ほとんど効果がありませんでした。彼女は宗教には興味がなく、むしろ、彼女の好奇心を刺激するいろいろなものが、なぜ、どこから来ているかと自分で知りたいと思ったのです。彼女は聖書よりも古典を読むほうが好きでした。母の書斎には彼女の読みたい本がたくさんありました。その中の一冊「三人のジャドソン夫人」は小さい時に母が読んで聞かせたもので、彼女はこの本を後になって感謝をもって思い起こしたものでした。
ヴューモントでの安息日は厳格に守られていました。母は土曜日にできる仕事を安息日にすることを許さず、土曜日に翌日のパンを焼いたり、掃除をしたり、訪問客の用意をしたりして、日曜日を静かに守りました。ムーン家の人たちが日曜日に教会で見かけないのは、道が非常に悪くて馬車が通れない時だけでした。
12歳のある日、ロティは一つの計画を立てました。それは日曜日の朝、教会に行かずにごちそうを作って、教会から帰って来た家族を驚かせようということでした。日曜日が来ると、彼女は自分の計画を誰にも言わず、ただその日は教会に行きたくないとだけ言いました。両親はそれを聞いて不愉快な顔をしましたが、強制はしませんでした。馬車が見えなくなると、彼女はすぐ台所で働きました。家族が教会から帰って来るまでにごちそうはすっかり整っていました。しかし、それは決して楽しい食事ではありませんでした。父はきつい顔をして座り、母はパンを口にするごとに苦しそうな表情をしました。この両親の気持ちが子どもたちにも影響して息づまるようなひとときでした。食事が終った時、ロティはほっとしました。そして二度とこのようなことはしませんでした。それ以後は、家族が教会に出た後の台所には、鍵がしっかりとかけられたからです。
15歳のロティ <1855年>
父が死んでから2年後には、ロティは家庭教師から習えるものはすべて学んだので、母は彼女をヴァージニア州の専門学校に入れました。この学校は現在の高等学校程度のものでした。ここでロティは哲学に対して興味を持ち、言語の勉強に優れた才能を示しました。
ただ悪い成績といえば品行でした。最初の2学期は「優」でしたが、その次の学期はぐんと点が下がって、2年生の時には「可」ばかりとるようになりました。ロティのはちきれるばかりの元気を、学校の厳しい規則が抑えておくことはできなかったのです。彼女は自由に大胆に、当時の女の子がしないことをやってのけました。
1855年4月1日、エイプリル・フールの前夜のことです。日頃から学校の屋上にかかっている鐘が起床の時、食事の時、教室に入る時に鳴って、何か鐘に命令されて生活することに反抗を感じたロティは、4月1日にあることをしようと決心しました。朝早く、皆が寝ている間にベッドからそっと抜け出て、前の晩から用意しておいたシーツと毛布を持って、しのび足で部屋を出ました。音がしないように鐘楼の階段を登って、注意深く鐘の内側に下がっている金具にシーツと毛布を巻き付け、紐でしっかり結びました。それから静かに部屋に帰ってベッドにもぐりこみました。
エイプリル・フールの朝、6時になっても起床の鐘がなりません。朝の点呼は1時間も遅れてしまいました。怒ったのは校長先生です。「生徒の大切な時間を盗んだどろぼうは誰だ。すぐ校長室に来い。」と厳命しました。生徒たちは口にこそ出さなくても、ロティの仕業だということは感づいていました。でも、彼女が自分で名乗り出るかどうかと、こそこそ話し合っているところに当の本人が姿を現わして、神妙な顔つきで言いました。「これで品行は落第点。休み時間も取り上げられるのよ。」それからいたずらっぽい笑いを浮かべながらつけ加えました。「でも面白かったわ。」
19歳の信仰決心 <1859年>
彼女はキリスト教の教派の問題について真剣に考えました。家族の中にいろいろな教派の者がいただけに、この問題については自分ではっきりとした解答を見出したいと思ったのでしょう。信仰ということにも批判的な態度をとり、十分な理解と確固とした信念がなくて、ただ親の信仰を無批判に受け入れている人を軽蔑しました。彼女が思索と研究の結果到達した結論は「宗教を受け入れる余地なし」ということであり、「哲学こそ探求すべきである」ということでありました。ある日曜日に教会を休んだ彼女は、その朝どこにいたのか、と尋ねられた時「干草の上に寝ころんでシェークスピアを読んでいたわ。その方がつまらないお説教を聞くよりずっといいんですもの。」と答えました。
1859年の春、ジョン・A・ブローダス博士の特別集会が学校で開かれ、学生は早天祈祷会をしていました。何とかしてこの伝道集会でロティ・ムーンが決心して欲しいというのが学生の真剣な祈りだったのです。自分のために皆が祈っていることを知ったロティは憤然として「私のためになんか祈らないでちょうだい。」と言い、友だちが熱心に勧めると、いつもたくみに、冗談まじりに身をかわしてしまうのでした。
ブローダス博士もこの聡明な女子学生に深い関心を示し、何とかして彼女を導きたいと願っていました。すると大きな奇跡が起こりました。それは博士の説教によるものか、個人的な話し合いによるのか分かりませんが、ただ彼女の短い告白の中に秘められた魂の秘密の一端を伺い知るのです。
「私は冷やかし半分に集会に行きましたが、部屋に帰ってから一晩中祈り通しました。」魂の戦いの一夜が明けて、翌朝彼女は祈祷会に姿を現わしました。友だちの祈りを冷たく聞き流す者でなく、熱心に祈る者として出席したのです。ロティ・ムーンは主に降服したのでした。
当時の彼女をよく知っていたある女性は次のように語っています。「回心してからのロティ・ムーンは変わりました。頭は相変らず知性に輝いていましたが、それに優しさが加わってきました。天性の聡明さに加えて、はっきりとした人生の目的に向かって進む気迫が感じられました。また、友人への影響も変わってきたのです。そして毎日の一つ一つの行為が、クリスチャンとしての勝利の証しだったのです。」
南北戦争(1861-1865)と平和のおとずれ <1864年(24歳)>
学窓を出た彼女を待っていたものは深刻な世界でした。南北戦争はもう4年間も続いていました。戦うためにすべての力が集中されなければならない非常時にあって、彼女の高い理想も将来への夢も、その実現を平和の回復まで待たなければならなかったのです。
彼女の心の内に起こった変化、それはただ一番仲良しの従姉にもらした言葉が示唆するものです。
「説教を面白半分に聞きに行き、部屋に帰って祈り通したあの夜から、私は神を知らない人びとに福音を伝えることが自分の使命であると信じているのです。」
子どもの頃、母から聞いた「三人のジャドソン夫人の生涯」が、彼女の人生の一つの方向を与えました。異境の地、ビルマで宣教のために一生をささげた、あのアン・ジャドソンに続くものになりたいと願うようになったのです。
やがて戦争も終わり、ロティは家の責任から解放されて、今度は南部を絶望と廃墟から救うために努力しようと決心しました。
教師になったロティ <1869年(29歳)>
彼女は教育の重要性を思い、ここに女子教育の先駆者としての使命を感じました。まもなくケンタッキー州のダンヴィルの女学校から招聘を受け、学校で教えると同時に、バプテスト教会の牧師の助手になりました。女性で牧師の助手となったのは、彼女が初めてでありました。
1869年、ジョージア州のカーテスヴィルに女子のために新しい学校が建つことになり、ロティとサンフォードがその経営を依頼されました。1870年、二人は勇気と信仰とをもってこの申し出を受け入れ、新しい学校に移りました。当時南部では女子教育の必要が認められていなかったため、女子の教育を始めるにはいろいろな困難がありました。しかし二人の努力は予想外に成功を収めたのでした。
母の死と18歳のエドモニアの宣教師決心 <1870年(30歳)>
新しい学校での最初の学期が終わる前に、悲しい知らせが届きました。ロティの母が重態になったのです。急いでヴューモントに帰ったロティは静かにこの世から去って行く母のそばで最後の看病をしました。
永遠の朝に目覚めるために、平和な微笑みを浮かべながら眠りにつく母。その顔に死に打ちかつ信仰者の勝利の栄光を見たロティは、悲しみの中にも感謝をもって姉に手紙を書きました。「母には苦しみがありませんでした。死に打ち勝った母の姿を見た今日は、もう死を恐れることはありません。」
母の死に続く数日を、一緒に過ごしたロティとエドモニアは、人間が誰でも経験しなければならない生と死、そしてその間の短い人生の意味について真剣に話し合いました。エドモニアはその与えられた人生を神に捧げたいと願っていました。まだ18才でありましたが献身の決意が固く、燃えるような信仰をもっていました。その冬、北中国で伝道している宣教師から、教育に携わる独身の女性を送って欲しいという要請に応えて、エドモニアは中国に伝道に行く決心をしました。
エドモニアを支えるロティ <1872年(32歳)>
エドモニアが献身して宣教師となったことは、長い間外国伝道を真剣に考えてきたロティに深い感銘を与えました。エドモニアからの長い魅力的な手紙には、航海のこと、親切な新しい友達のこと、中国語に対する興味、土地の習慣が書かれ、特に中国の人にイエスのみ言葉を伝えるという働きに対する熱意が記されていました。
この間にもロティは忙しい生活を続けました。教室で教える他に日曜学校をはじめ、生徒を集めるために積極的に出かけていきました。自分のお金で生徒のために必要な着物を買ったり、たくさんの貧しい家族に聖書の与える慰めを伝え、祈りの友となりました。こうして彼女は牧師を助けて献身的に働きました。
ロティの宣教師決心 <1873年(33歳)>
1873年年2月、伝道者と執事のための集会で外国伝道を強調する熱烈な説教があり、そこに出席していたロティの牧師は感激して一つの提案をしました。それはそこに出席している人たちが、それぞれの教会に帰ってから、主の収穫のために、もっと多くの働き人を起こすために祈り、また訴えることでありました。
この牧師は次の日曜日、カータスヴィルの教会で「目をあげて畑をみよ、収穫の時が来ている」という題で説教しました。彼はこの訴えに誰か一人でも応えてくれるようにと祈っていました。
説教が終わった時、この町で尊敬されている二人の学校の先生が前に進み出ました。ロティ・ムーンとその友人サンフォードであったのです。ロティは牧師に言いました。「私は長い間、神が私を中国で必要としておられることを知っていました。今、私は行く用意ができています。」
ロティ、中国へ <1873年(33歳)>
慌ただしい日が過ぎて8月18日、ロティ・ムーンはメリーランド州のバルティモアを発って、友人のサンフォードと共に8月30日サンフランシスコに到着し、1873年9月1日、中国に向けて出発しました。
長い間宣教の志を抱いていたロティは、今こそ望みが叶えられて任地中国に行くのです。かの地には最愛の妹エドモニアが待っています。「エドモニアがいるので、まるで自分の家に帰るようだ。」と友人に漏らした彼女を通して、神は大きな御業をなそうとしておられるのです。神から与えられた豊かな才能のすべてを神に捧げつくす彼女を通して……。
ロティ、日本に寄港する <1873年(33歳)>
サンフランシスコを発って上海に向かう船中の様子は、母国に送られた手紙の中に詳しく書かれています。船には中国に赴任する各教派の宣教師が数名乗っていて、船が横浜に寄港したとき、一緒に町を見物しました。ロティがこの時に受けた日本の印象は、日本人が礼儀正しいこと、日本の産物が美しいことなどで、日本の素晴らしさに驚かされたと手紙に書いています。この日本の第一印象は、中国滞在中に日本への深い愛情となり、南部バプテストは早く日本に福音を伝えなければならないと主張していました。
長崎から上海へ向かう途中で嵐に遭い、船は数時間、荒波に木の葉のように翻弄されました。その時の様子を手紙にこう書いています。「今こそ世の終りが近づいたのかと思いました。でも神の御心であったらそれでもよいと考えたのです。今にも船をのみ尽くすような怒涛を眺めながら、もしイエスさまが海の上を歩いて来られたとしても、私は狼狽しないだろうと思いました。私の心の中には『私である。恐れるな。』という静かな優しい御声が聞こえていたからです」。
翌日、嵐は治まり、船は無事長崎の港に引き返しました。波高い東シナ海を渡る二度目の航海も無事に終えて、1873年10月7日の朝、船は上海の波止場に着きました。ここには登州(とうしゅう)で伝道している先輩のクロフォード氏とイェーツ氏一家が待っていて、新米の宣教師を温かく迎えました。
ロティ、登州へ <1873年(33歳)>
12月の初めにロティ・ムーンはクロフォード氏の一家と一緒に芝罘(しふう・中国山東省の海港)に渡り、そこから55マイル離れている登州に行きました。この古い保守的な町での伝道は、決して易しいことではありませんでした。まだ一度も外国人を見たことのない登州の人たちの前に、色の白い人が不思議な教えを説き始めたのですから、皆が驚き、反感をもったのも無理はありません。
何万という住民の中にわずかに男2人、女4人の宣教師、長老教会の宣教師を合わせてもごく少数ですから、伝道はなかなか進みません。この困難な仕事に取り組んだロティは、次のようにその感想を本国に書き送りました。
「キリスト教国の人たちは異郷の国における困難を想像することもできないでしょう。それは人間の力では克服することができないようなものなのです。この間でクリスチャンになる勇気が与えられるとすれば、それはただ神の恩寵によるものです。祖先代々伝えられてきた異教の習慣が根深く生活の中に入っていて、それを破ることは、生活の根拠を失うことなのです。その上、外国人と親しくすれば皆が反感をもちます。こういう中でクリスチャンになるのは、どんな大きな勇気を必要とすることでしょうか。それでも私は中国にキリストの教会が育って行くことを確信しています。福音のパン種はこの広漠な国に必ずや広がって行くことでしょう。」
ロティは初めから中国人の思想や生活に対して深い興味をもっていました。中国語は難しくても、勉強していくうちに中国人の歴史や生活を理解することができるようになり、語学の勉強が単調な生活の中の大きな慰めとなりました。こうして彼女は中国文学と歴史を深く研究し、中国語もほとんど完全に修得しました。
エドモニアとの伝道と病気帰国
エドモニアはずっとクロフォード家に住んでいましたが、一家が帰国することになったので、ロティと一緒に2年間空家になっていた家に移り住むことになりました。二人は以前から家を買って学校を始めたいと思っていました。長いこと掛かって、やっと家が手に入り、いよいよ長年の計画を実行しようとする時になって、意外な障害が起こりました。エドモニアの目が悪くなったのです。目ばかりでなく、次に喉も悪くなり、学校の仕事を辞めて休養しなければならなくなりました。しかし彼女は静養中も時間を無駄にしないようにと、初等科生徒の地理の教材を作り始めました。何とかして仕事を続けたいと努力しているうちに、病気はどんどん進行し、肺も冒され、神経の衰弱が激しくなったので、もう一度上海の医者に相談に行ったところ、即刻帰国するようにとの命令を受けました。もちろんロティが付き添っていかなければなりません。あの若い快活なエドモニアが異国の地に伝道に来てから五年で、もう一度ヴューモントに帰ることになったのです。
温かい幸福な家庭に戻ったエドモニアが日に日に元気になっていくのを見たロティは、もう一度中国に帰る決心をしました。最初中国に行った時には、エドモニアがいるからという気持があったのかもしれませんが、今度、単身中国に戻るロティの心中には、これこそ神の御心であるという信念があるのみでした。
外国伝道局の資金難と婦人会の支援 <1877年(37歳)>
ロティが中国に帰ろうとした時に、外国伝道局は資金難のためロティの帰任を当分見合わせるように、他の一組の宣教師も同様な理由で待機中であると告げられたのです。しかし南部バプテスト連盟の中に、ぜひこの3人の宣教師を中国に送って欲しいという要請が起こり、ヴァジニア州の第一バプテスト教会の婦人会がロティを財政的に支えたいと申し出ました。またジョージア州の女性たちも、ロティとエドモンドの家を買うために2,382ドル63セントの献金をしました。ロティは家を買うまでこの金を上海の銀行に預けました。
ロティが再び中国に戻る時には、伝道の困難なこと、宣教師としての犠牲がどんなに大きいかをよく知っていました。しかし、その困難な伝道にロティは喜びと希望をもって帰って行きました。新年にはあの「懐かしいホーム」で仕事をすることができることが楽しみだったのです。
飢饉の苦しみ <1878年(38歳)>
米国から帰ったロティの心を苦しめたのは北中国の飢饉でした。何十年来という悲惨なもので、2年間収穫はなく、 1878年の春には、ある地方の状態は絶望的になっていました。登州から西200マイルの所では、数千という住民が餓死していきます。上海の宣教師が送ったお金もこの群衆を助けるには殆んど効果もなく、登州には続々と避難民が集まってきました。ロティは生まれて初めて餓死していく人を見て、その悲惨な有様を生々しく描写して本国に送りました。その結果、多量の救援物資が米国から送られてきました。
彼女は困難な伝道の生活の中に、ますます神の臨在を深く知り、神の力に頼るようになっていました。自分にのしかかってくる山のような困難、異郷国における伝道の方法と計画、孤独の生活の中で、ややもすれば精神的に弱くなりやすい傾向を克服して、絶えず生き生きと新鮮であり続けること、そして少しずつ偏見がとれていく中国の婦人たちに神を力強く証しすること― この重要な問題を前にして、彼女は神に信頼することこそ、唯一の生きる道であり、その他の個人的な感情は考慮すべきでないことを悟ったのです。
学校経営から農村伝道へ <1878年(38歳)~1882年(42歳)>
1878年にロティが長い間夢見ていた女子のための学校が開かれることになりました。しかし3年後には、古い保守的な中国の社会には、このような女子の学校が受け入れられないのではないかと思うようになりました。中国人の生活や物の考え方を知れば知るほど、女子の学校の経営が不可能に近いことを知ったのです。
1879年、ホームズ夫人と農村の村々を回ったロティは、ここに町に見られない伝道の機会があることを知りました。畑で働く人たちは町の人たちほど伝統に縛られず、纏足(てんそく)緩やかで、外国人に対しても、反感や恐怖よりもむしろ好奇心が強くて、道を歩けば子どもたちが集まってきました。しかし何よりロティを喜ばせたことは、女性たちに福音を聞こうとする気持があることでした。「登州にいるよりも農村で直接伝道に当たった方がよいのではないか」と彼女は考えました。
1882年、ロティの学校は最悪の事態に直面しました。以前からこの決断の日が来ることを知っていたロティは、学校経営の傍ら農村伝道を始めていましたが、今こそ全生活をあげて、この新しい仕事に打ち込むことになりました。教育の仕事は若い宣教師に託して、自らは農村に向かうロティ、ここにもただ福音のために捧げ尽した彼女の献身と勇気と熱情がみられるのでした。
農村伝道 <1882年(42歳)>
農村伝道はロティにとって非常にやり甲斐のある仕事でした。毎日毎日、登州周辺の村落を巡り歩いて伝道するのは苦しくても、犠牲が大きくても、大きな喜びと豊かな満足感を与えるのでした。
ロティを訪ねて来る人はだいたい女性と子どもで、男性は原則として部屋に入れないことにしていましたが、ほかの宣教師が一緒の時には、別室に男性と男の子どもを入れて同伴の宣教師が教え、ロティは女性を教えることにしていました。時には男性に隣りの部屋から話を聞かせることもありました。ロティの伝道の主な対象は子どもたちでした。子どもたちは喜んで歌を習い、家に帰って習った歌を歌って聞かせたり、もらった本を見せたりして、親たちを喜ばせ、それが家族伝道のよい機会となったからです。
伝道旅行に出る時には、どこかの村を中心として、そこから時間と体力が許す限り近所の村を回ることにしていました。大抵は外の道で伝道し、招かれた時には家に入って話をしました。
伝道の困難と喜び <1882年(42歳)>
ロティは中国人の生活に興味をもち、その労働日課、習慣、伝統などを鋭く観察しました。中国人については、次のように述べています。「中国人は、よく知り合って、その生活の中に溶け込んでいけば、親切で、親しみ深い人たちです。近所付き合いがよく、病気の人に対しては特に思いやりがあります。女の人の方が、男の人より付き合いやすいようです。」と。女の人がロティの話を聞きに集まっている時、男の人が来て「外国人の話など聞くな。」と言って追い散らしたりするのをロティは幾度も経験しました。「悪魔の女め。」と罵(ののし)られることも珍しくありませんでした。
ロティの毎日の仕事は決して易しいものではありませんでした。しかし福音を一人でも多くの人に聞かせるために、彼女はどんな困難にも耐えていきました。ホームズ夫人と一緒に行ったある伝道旅行の2日目の終わりに、ロティは疲れ果てて、もう今日は何もしないと言いました。しかし、次の村落に着いて椅子を運んでくれている人がその椅子を下ろすと、すぐ大勢の人が集まってきました。ロティはこれを見て、しみじみと述懐しました。「黙っていることはできないのですね。私たちは永遠の命の言葉を持っているのですから、どんなに疲れていてもそれを伝えなければならないのです。」
平度への伝道 <1885年(45歳)>
10年程前、ロティが初めて中国に来た時に、中国の奥地に一番最初に来た宣教師に導かれた信者が残っていて、非常に敬虔で研究心が深いということを聞きました。
ロティが登州で知り合った平度(へいど)生まれの趙(ちょう)から、彼の母親の家に泊まることができると聞かされて、いよいよ1885年10月初め、単身平度に行くことになりました。山東からは4日間かかり、途中萊州(らいしゅう・山東省)を通るのですが、ここは外国人に対する敵意が激しいため、ロバ車引きは、ろばの鈴に布を巻いて音がしないようにして、夜こっそり彼女を連れて行きました。
平度の地方は登州とはだいぶ様子が変わっていました。登州付近に見られるような極端な貧困はなく、ここの主な宗教は仏教で登州の無神論、無宗教とは対照的でありました。ずっと以前に伝道した宣教師との接触もあったためか、今この地に移ってきた白人の教師から宗教の話を聞いてみようという進歩的な態度も見られました。また一つの宗教を信じることも住民の間では別に珍しいことではなかったため、ロティの伝道に強く反対する者もありませんでした。
もちろん困難が全くなかった訳ではありません。ロティが教えようとすると、男の人が妨害することもありましたが、女の人が喜んで聞こうとするので、ロティはおおいに励まされて、外国伝道局にこの開拓伝道地にもっと女性宣教師を送るように要請しました。彼女は女性宣教師なら偏見を打ち破って、一番深い奥地に永久的な伝道の根拠地を作ることができると考えたのです。
登州が人手不足のため、平度に住ついてしまうこともできず、登州に戻りました。しかし平度に使命があることがはっきりとしてきたので、向こう二年間を平度伝道に専念するため、1885年12月に登州を発って再び平度に向かい、途中で45歳の誕生日を迎えました。
平度伝道~不信から信頼へ <1885年(45歳)>
最初、近所の女性や子どもたちはロティを恐れて遠ざかっていました。彼女が美味しいお菓子の箱を手に持って子どもたちに与えようとしても、「変な女がくれるお菓子には毒が入っている。」と言って手を出そうともしませんでした。そのうちに一人の男の子が空腹のあまり、夢中でお菓子を取って食べると何事も起こらなかったので、それから毒が入っていないことが分かり、皆が喜んでお菓子を食べるようになって、外国人と恐れていた人たちもだんだん親切に、親しみ深くなってきました。こうなると町を一緒に歩く人も出てきて、外国人は敵でなく友だちだということが皆に伝わるようになりました。
趙が親戚の人たちにロティを紹介したので、女性たちが彼女の家に来て、熱心に「不思議な新しい信仰」について聞くようになり、彼女の家は女性たちの集会所となりました。彼女はこの家を中国風のままにして洋風に改造せず、食事も衣服も中国人と同じものにしたため、人びとは彼女に親しみを感じるようになり、こうして平度の伝道が本格的に始められました。
6ヶ月経って彼女は招かれて3つの村を訪ねました。全部の訪問を合わせると、村が33回、町が120回になり、10年間の登州における冷たい取り扱いと比べて、丁寧な、親切な愛情が平度で示されました。
外国伝道局への女性宣教師派遣の依頼 <1886年(46歳)>
北中国宣教団は外国伝道局に対して、黄県(こうけん)、平度、萊州などの奥地伝道のために、独身の女性宣教師を派遣するように正式に依頼しました。独身の女性宣教師を派遣することについて、ロティは以前はあまり賛成していませんでした。登州に働いてみて、その仕事があまりにも困難であり、その生活があまりにも孤独で、伝道の発展も実に遅々としているので、大抵の女性は堪えることができないと思ったからです。しかし、今は彼女の気持は変わりました。献身した女性が生涯を中国の女性のために働く素晴らしい機会が開けていることを知ったからです。彼女は思いました。「奥地の人たちは登州の人とは違っている。この求めている女性たちのために専心働くことは女性宣教師にとって生き甲斐のあることだ」と。もちろんロティは奥地伝道の困難を認めない訳ではありません。外国伝道局にこのように書き送っています。「奥地にはまだまだ障害がたくさんありますから、ここで働く女性宣教師はただ漠然とした気持で来るべきではありません。奥地ではただ困難な仕事が山程あるだけで、他に魅力的なものは何一つないというのは、文字通り事実です。けれども、もし女性宣教師が非常に狭められた生活範囲の中で、なお誰かの役に立ちたいと願って働く時は、その犠牲的精神は必ず豊かに報いられるでしょう」と。
独身の女性宣教師が来ることについて、ロティはいろいろと心を砕きました。特に最初の1年間に孤独を感じないように、自分の家に迎えて、幸福な楽しい思いをさせ、次第に奥地の生活に慣れるようにしたい、更に奥地から夏、登州に休養に帰って来たときは「小さな十字路」にある自分の家を自由に使って欲しいと申し出ました。独身の女性宣教師を外国伝道局に要請する時には、いつも彼女たちにホームが必要なこと、できるならば淋しくないように2人一緒に住ませるように進言しました。
ロティ、男の人に伝道する <1886年(46歳)>
1886年に1ヶ月だけクロフォード夫人が平度伝道を応援に来ました。クロフォード夫人は、女性が福音を述べるのを禁じている聖書の箇所に囚われず、男性にも女性にも伝道すべきだという立場から、男性ばかりの大きなクラスを受け持ちましたが、ロティは自分が育ったヴァジニア州の習慣に従って、女性と子どもだけを教えました。
クロフォード夫人のクラスに李という老人で熱心な求道者がいました。クロフォード夫人が忍耐強く教えましたが、理解が遅く、クロフォード夫人が登州に帰った後、ロティの所へ来てぜひ教えてほしいと懇願しました。そして彼と一緒に村の数名の男性がやって来て、「永遠の命」を知らせて欲しいと頼んだのです。
この真剣な願いをロティは退けることができましょうか。彼女は福音宣教について女性の働きを制限した聖書の教えに忠実でなければならないと厳格に教えられてきました。しかし今、目の前に男の人が永遠の生を求めて立っています。彼女はその生命を持っているのです。これを伝えることが彼女の責任ではないでしょうか。男性の宣教師といえば、登州にプルエット氏が1人いるだけで、そこから来るのに7日間もかかります。彼女は決心しました。そして男の人たちに女の人のクラスに入って聞く許可を与えました。こうして広い部屋の後の方に男の人が座って、女の人と一緒に聖書を勉強しました。こうして彼女は今までのしきたりを破ったのです。でもこの場合、もともと女の人を教えていて、やむなく男の人が後に入ってきたのだから、パウロ先生も許してくれるだろうと彼女は考えました。
李は熱心に道を求めました。ロティはこの老人に新約聖書を与えましたが、読めないので、彼女はそれを親戚の人の所へ持って行って、彼に読んで聞かせるように頼みました。
休暇の願いと社会の変化、宣教派遣の切望 <1887年(47歳)>
ここ1年間ロティの喉が悪くなって治療してもなかなか治らないので、無理をして酷くなって、アメリカに帰らなければならなくなったら、後の仕事はどうなるかと考えると、この辺で少し休むことが賢明であると考えて、外国伝道局に正式に休暇願いを出しました。彼女はこの願いがわがままなものではないと考えました。
その年、中国にはいろいろな変化が起こりました。中国政府の外国人に対する態度も変わり始めて政府は外国のことを学ぶことを正式に許可しました。登州の人たちの外国人に対する態度も変わってきました。過去10年間に飢饉や天災に際して外国人が援助したことや、彼らの間に生活した宣教師が親切で誠実であったことなどが登州の人たちに深い印象を与え、偏見の壁が崩れ始めたのです。
1887年3月、ロティは登州からこのように書いています。「中国人の外国人に対する感情は大きく変わってきました。真剣に伝道しようとする者なら肉体的な苦労は不平や不満なしに堪えていかれると思います。けれども何をしようとしても疑われ、冷淡にされ、嫌われ、また憎まれたりすると、鉛が心の中に入って来たような重い気持になります。長い間中国の宣教師はこの精神的な苦しみを耐え忍ばなければなりませんでした。でも嬉しいことに今はずいぶん違ってきています。この登州において昔、冷ややかに目を逸らし、悪口を言った人たちも、今は私たちを微笑と丁寧な歓迎の言葉をもって迎えてくれます。以前は物珍しさから、何となく聞いてみようかと思った人たちも、今は真剣に、熱心に、そして敬虔な態度で生の言葉を学ぼうとしています。」
ロティはこのように訴えて、今門戸の開けた中国に働き人を送るように真剣に願いました。「神さまのお仕事をいつまでやらないままにしておくのでしょうか。どれだけ多くの魂が、実に数え切れないほどの多数の魂が、イエスの名も聞かないままで、永遠に滅びていくことでしょう。平度では伝道の機会があっても、伝道者がいないためにほとんど何もできないという状態です。」とロティは訴え続けました。南部バプテスト連盟からの返事は「資金がない」というひと言です。けれどもその間に、外国伝道局の負債を返そうという運動が起こり、負債が返せれば宣教師の補強ができるかもしれないという、ほのかな希望が持てるようになりました。
平度と登州の両方の伝道を掛け持っているロティには、時が経つにつれて人手不足が深刻に感じられてきました。1887年の7月になっても外国伝道局からは新しい宣教師を送るという通知がきませんでした。けれどもロティの訴えは南部の新聞や雑誌に載せられ、伝道の急務が少しずつ南部バプテストの間に理解され始めたのです。
休暇をあきらめる <1887年(47歳)>
ロティはいよいよ休暇をとってアメリカに帰ることになりました。ところがある日曜日のことです。2人の男性が突然ロティの前に現われました。この人たちは平度附近の村の者で、ロティがなかなか平度に戻って来ないため、村の女性や子どもたちが待ちかねて、途中までロティを迎えるようにこの男の人たちに頼んだのですが、ロティに会えないままに、とうとう登州まで150マイルの道を歩き通してしまったというのです。
「福音をこんなにまで求めている女性たちがいる!そしてこの男の人はその福音を語る教師を訪ねて150マイルを歩いてきたのだ。平度では女性たちが今か今かと自分が来るのを待っている。平度?それは私のホームではないか。」ロティはこう考えると、今こそ重大な決断をしなければならないと思いました。懐かしいヴァジニア、親しい家族の人たち。しかし、その面影よりもなおはっきりと浮かんでくるのは、平度の女性たちの熱心な顔つきでした。女性たちの後に遠慮しながら座って話を聞くあの男性たちもロティを呼んでいるように思えました。
「平度へ帰ろう。」ロティは決心しました。この間の事情をロティはこう書いています。「私は6月まで(1888年)平度に留まることに決心しました。誰も平度に行く人がいないからです。新しい宣教師が来てくれればとそれのみ願っていましたが、外国伝道局も教会の献金がなければ派遣するお金もないのでしょう。ですから私は平度で冬を過ごすことにします。私は平度のために今までに大きな犠牲を払ってきましたが、やっと教会の基礎ができたようです。私はいつでも平度を去る時には淋しく、平度に帰る時には嬉しいのです。皆さんは私が平度のことばかり言っているとお思いでしょうが、平度は私の心の故郷なのです。」
こうして西の門の近くのあの借家に、アヘン常用者の妻が住む家の隣りに、そして女性たちが熱心に待っているあの村に、ロティは帰っていきました。
この頃になると、平度地方ではロティがイエスについて教える人であることが広く知られるようになりました。町民や村民の中には福音を喜んで聞く人もいますが、反対する人もいます。それでロティが町を通ると男や女が「悪魔の女」とか、もっと酷い言葉を投げかけるのですが、ロティは静かに答えます。「私は人間です。悪魔ではありません。世界中の人は皆兄弟、姉妹なのです。」と。決して怒ったり苛立ったりすることのないロティ。ただ黙って、優しく偏見や敵意を堪えぬこうとするロティは、愛と忍耐の権化でありました。
女性たちへの提案~世界祈祷週間 <1888年(48歳)>
ロティは南部のバプテストに新聞に載った記事や論説を読んで、南部バプテスト連盟の女性たちの間に新しい運動が起こっているのを知りました。それは「女性の伝道は女性の手で」というスローガンの下に、米国南部の女性たちが積極的に異郷国の女性たちに伝道しようとする記事でした。ロティはこの仕事に非常な関心を寄せ、自分の長い間の経験に基づいて適切な意見を述べ、この運動の組織化に顕著な貢献をしました。1887年12月に発行の外国伝道新聞に載せられた彼女の提案は今後の婦人会の働きに大きな力を与えました。この提案はその年の6月にメソジスト派の女性会員が始めた祈祷週間から示唆を得たものです。「南部バプテストの女性の働きが弱い主な理由は、組織がないからだと思います。私たちは今、あの立派な女性たちに学び、少額の献金をする代わりに、何か大きなことをして、私たちが『富んでいても私たちのために貧しくなられた』主の御跡に続く者であることをすべての人の前に証明する必要があります。」
「私は南部バプテストの女性が外国伝道と内国伝道のために一週間ずつ特別な祈祷と献金の時を持つことを提案します。外国伝道のためには、クリスマス前の一週間が適当であると思います。」
「クリスマス前の一週間を選ぶ理由は明らかです。クリスマスは家庭や友人が『神からの最も偉大な贈りもの』を覚えて、互いに贈りものを交換する喜びの季節です。神はこの『贈りもの』を祭壇に供えて、人類の救いを完成させてくださいました。このクリスマスは、富める者はその豊かな富から、貧しい者はその貧しさの中から、心一杯の捧げものをして、この喜びのおとずれが、世界の果てまで届くようにと祈るべきではありませんか。」
ロティは伝道のためにできる限り多額の献金を集めるためには組織が必要であることを確信していましたが、宣教師の任命と伝道献金の使用方法については、すべて外国伝道局に一任すべきであると主張しました。他の教派でも各個教会の女性たちが伝道の使命と責任に目覚めた時にのみ、外国伝道が進展した事実を挙げて、バプテストの女性たちに呼びかけます。
1888年5月に南部バプテスト連盟の年会がヴァジニア州、リッチモンド市で開かれた時に、婦人部(婦人宣教団体)が正式に組織され、南部バプテストの世界伝道に積極的に参加することになりました。この素晴らしいニュースがロティに届いたのは夏を過ぎてからでした。
後任の宣教師派遣の願い <1888年(48歳)>
何とかしてもっと多くの働き人を送って欲しいというのが、ロティの切なる願いでした。ロティはこの数年間上海の銀行に約1000ドルの預金を持っていました。これはロティの母の遺産の一部であったと思われますが、これを彼女は非常に少額の利子で外国伝道局に貸すから、伝道局の危機を乗り切るために使って欲しいと申し出ました。発足して3ヶ月になったばかりの南部バプテスト婦人部(婦人宣教団体)の主事は、このことを聞いて強く心を打たれ、外国伝道局総主事のタッパー博士に手紙を書いて、南部の女性たちがクリスマスに特別献金をして、ロティを助けるために新しい宣教師を送る費用を作りたいと申し出ました。タッパー氏は南部の女性が真剣になれば必ずやれると思って賛成しました。女性たちは100ドルを使って、その頃南部の各地に組織されてきた婦人会に訴える文書を作成しました。これは実に信仰の冒険でありました。
10月にはロティは再びタッパー博士に手紙を書き、もし外国伝道局が上海銀行にある彼女の預金を使って今すぐ2人の女性宣教師を平度に送ることができるなら、伝道局の財政状態がよくなるまで無利子で貸してもよいと申し出ました。この手紙はすぐ婦人部(婦人宣教団体)の主事に送られました。女性たちのクリスマス献金は非常な熱意を持って進められました。平度ではロティが福音のためにすべてを捧げて働いているということが大きな励ましとなったのです。献金が各地から婦人部(婦人宣教団体)に送られてきました。その額を合わせてみると、なんと2人の宣教師を送ってもなお余るほどの金額だったのです。
献金の報告は直ちに中国に伝えられ、それと同じに帰国を要請する手紙が届けられました。しかしこの要請は再び退けられました。お金はできても、宣教師がいなければ、どうして平度を去ることができましょうか。新しい宣教師が来て、仕事の引き継ぎができるまでは平度に留まる責任があるのです。ロティが中国に戻って来てからすでに11年が経過し、これ以上留まることは健康上危険であると思われましたが、後任が来るまで何としてもここを離れないとロティは深く心に決めていました。
平度バプテスト教会の誕生~迫害と福音の広がり <1889年(49歳)>
1889年の8月、ロティにとって非常に嬉しいことがありました。平度に最初のバプテスト教会が組織されたのです。会員は11名でその中に李老人もいました。彼の家族は、彼が妙な教えを学ぶことがないように、夜になると部屋に鍵をかけて外に出さないようにしましたが、それにもかかわらず信者になって、教会組織の日にバプテスマを受けました。また彼の勉強を助けた親戚の李という青年も熱心な求道者になりました。この男は生来勉強が好きだったので、ロティは彼に本を数冊与えました。この若者はロティの有能な助手としてよく働きましたが、公に信仰を告白しませんでした。
教会が組織されたことを契機に、キリスト教に対する迫害が起こりました。熱心なクリスチャンが盛んに伝道したからです。特に中国の正月の頃は迫害者の敵意と反感が頂点に達しました。というのはロティの存在と求道者クラスの人気が、キリスト教を目立ったものにしていたからです。中国人のクリスチャンはロティの身に危害が加えられるのを恐れて、どこかに避難するように勧めましたが、彼女は「恐れてはなりません。ただ信じましょう。主イエスが守ってくださいます。どんな迫害でも主イエスが打ち勝って下さいます。」といって落ち着いていました。彼女を殺すと脅した男も、この確信に満ちた態度を見て、何をすることもできませんでした。
李という青年はバプテスマを受けていませんでしたが迫害のときに、クリスチャンの仲間に入って、弁明したり、信者を保護しようとしたので、彼の兄弟は公然と教会側についた弟の態度を見て非常に怒り、彼を殺そうとしました。李青年は村から村へと逃げながら福音の真理を証ししました。こうして迫害によって福音はいっそう広い地域に広がりました。
新しい宣教師の到着とロティの休暇 <1890年(50歳)>
1891年6月、宣教師の会議が開かれ、一組の宣教師が平度に来ることになりました。今こそロティは安心してアメリカに帰ることができるのです。あの美しいヴァジニアの山々を眺めてからもう14年になります。家族に、親しい人たちに、南部の女性たちに会えると思うと彼女の心は躍ります。外国伝道のための共同の努力を通して、ロティの心は今は固く南部の女性の心と結ばれていたのです。帰国するとなるとロティの思いは磁石のように故国に引き寄せられていきます。しかし僅かの間でも、今まで心血を注いで育ててきた平度の仕事を離れると思うと、また胸に痛みを感じます。
故国に帰ったロティは外国伝道局に「家に帰って来て嬉しいと思います。」と、一言だけ短い報告を送りました。
久しぶりの休暇、帰国報告 <1891年(51歳)~1892年(52歳)>
家に帰る、それは本当に素晴らしいことでした。ロティとエドモニアはもう一度一緒に生活し、心ゆくばかり話し合いました。平度で長い間孤独の生活に堪えてきたロティにとって、友人、知人の訪問は本当に楽しいものでした。
各地から女性の集会で話をして欲しいとの依頼が絶え間なくロティの下に届きますが、ロティは極度に疲労しているので、それを断わらなければなりませんでした。その時の心境が手紙の中に伺われます。メリーランド州、バルテモアにある婦人部(婦人宣教団体)の本部からの招待を断った時、ロティは外国伝道局のタッパー博士にこのように書きました。
「私は行きたいと思うのです。でもそのことを考えただけでも頭痛がしてきます。やっぱり中国で相当無理をしてきたと思わざるをえません。今は休まなければならないのです。頭痛を治すためには、どうしても安静にしていなければなりません。」
ロティはヴューモントで静かな冬を過ごしました。長い間離れていた家族との交わりも新たにされ、ロティの中国滞在中に生まれた子どもたちも紹介されました。ロティは生れつきの明るい性格と快活な笑いで、若い人たちの心を捉えました。こうして愛する人たちに囲まれて休息したロティは、疲労しきった体と心にもう一度力が湧いてくるのを感じました。
静かな冬も過ぎて春になると、また忙しくなりました。1892年、ロティは南部バプテスト連盟の年会に出席し、南部バプテスト女性の歴史の中に特筆すべきこの数年間の活動力の源となったロティの話を聞こうと熱心に集まってきた女性たちの前に立ちました。情熱と祈りを込めて中国を語る彼女の話は、今、全国的な組織をもつ女性たちの心に深い深い感銘を与えました。この感激は各地の婦人会に伝えられ、外国伝道に対する新しい熱意が全国に広まっていきました。
ロティ、再び中国へ <1893年(53歳)~1900年(60歳)>
1893年、ロティは再び、1人で10月に中国に向けて出発しました。1894年の初めにかけて、北中国の働きにいろいろな変化が起こりました。伝道上の困難に加えて、社会的にも不安が増してきました。中国と日本が戦争をしていて、山東省が紛争の中心地になっていました。両国は天然資源の豊富なこの地方を支配しようとして争っていたので、この付近の町や村は非常に動揺していました。
1900年の夏になると外国人とクリスチャンを排斥する運動が始められているという噂が聞こえてきました。「義和団」というのは外国人に対する憎しみの代名詞のようになっていました。各所で外国人が襲撃されたという噂が伝わってきますが、ハートウェル博士もロティもなんの支障もなく伝道を続けることができました。義和団の団員が登州の住民を煽動しようとしましたが、反応がなかったからです。昔ハートウェル博士が夜の闇に紛れて逃げたことを思うと、何という大きな変わり方でありましょうか。
芝罘(しふう)に逃れてきた避難民は、平度付近の村々で迫害の中にも信仰を守り抜いているクリスチャンの様子を伝えました。数千のクリスチャンは生き埋めにされたり、撃ち殺されたり、焼き殺されたり、切り刻まれたりしましたが、信仰を捨てる者はほとんどなく、地方長官が一時でも難を逃れるために信仰を放棄するように勧めましたが、その勧めに応じる者はごく少数しかありませんでした。この間に奥地に入る者は一人もなく、危険な状態が続きました。10月になってやや暴動も下火になってからハートウェル博士が息子と一緒に宣教師のさきがけとして帰っていった時には、クリスチャンが涙を流して出迎え、やがてあの村からも、この村からも多数のクリスチャンが出てきて、自分たちの牧師に今までの苦しみを打ち明けました。しかし外国人が来たことを知った民衆はデモを始めたので、ハートウェル博士はまた芝罘に帰りました。
ロティ、福岡に滞在する <1900年(60歳)>
芝罘(しふう)の町は外国人の避難者で非常に混雑していたのでロティはもう1人の独身の女性宣教師と一緒に日本の福岡に来て、ここの宣教師の家に滞在することになりました。ロティはすぐにでも登州に戻れると思っていましたが、北中国からの情報を総合すると、当分帰れそうにもないことが分かったので、日本で冬を過ごすことにしました。日本には1873年に立ち寄ったときから心を惹かれていたので、余儀なく長引いた滞在も彼女には楽しいものでした。
最初マコラム夫妻の近くに住み、10月には小倉で数日を過ごし、この間に熊本に赴任する宣教師のW・H・クラーク氏夫妻の訪問を受けました。
今まで6年半文字通り寸分のいとまなく働き続けてきたロティは、日本に来て必要な休養をとることができました。しかし何もしないでおられないロティはマコラム氏の息子たちを教えました。また、日本の男子の学校の校長から依頼されて一日に4時間、学校で英語を教えるようになりました。その他、校長と英語の教師が個人教授を受けに来たので、ロティは聖書をテキストにして英語を教えました。やがてこの2人の生徒は熱心な求道者となり、土曜日ごとに開かれている聖書研究会にも出席するようになりました。この男子青年を対象にした土曜日のバイブルクラスは彼女にとって大きな喜びでありました。やがて、ここに出席する数名が日曜日の聖書研究会を始め、このクラスから3名がキリストを信じる決心をしました。
治安の回復と母国の熱意の高まり <1901年(61歳)~1902年(62歳)>
1月になってやや希望的なニュースが入りました。山東省政府は、今後はクリスチャンに対しても、一時転向した人たちに対しても保護を加える旨を約束し、宣教師に対しても迷惑をかけたことを謝罪し、宣教師の用意ができ次第、いつでも奥地に安全に送り届ける用意がある旨を明らかにしました。ロティは、中国の伝道が制限されている実情を知って、4月まで福岡に滞在し4月の初め長崎を発って中国に向かいました。
「小さな十字路」の家は再び開かれました。クリスチャンは数マイル離れた所からロティの家に集まってきて、共に再会を喜び合いました。過去10ヶ月の混乱の中から次第に新中国の秩序が回復し、新しい生命がよみがえり、伝道が再び活発に始められるようになりました。
アメリカでは厳しい試練の中に耐え抜いたクリスチャンの英雄的な信仰と行為が、残忍な迫害の物語とともに、広く人びとの間に報道され、その結果、外国伝道に対する関心と熱意が高まり、外国伝道局は新しい宣教師を送る資金を得ることができました。こうして登州と北中国に新しい宣教師が送られ、ロティの長い間の祈りが聞き届けられたのでした。
1902年の初めに素晴らしいことがありました。小さい教会にリバイバルが起こり、会堂には求道者があふれ、多くの人たちがキリストを主として告白し、人びとは喜びに満たされました。今は登州の人たちはロティを「悪魔の女」という代わりに「天国の本を持つ人」と呼び「外国の悪魔」として軽蔑し、遠ざかる代わりに、家庭に温かく迎えるようになりました。
60才を過ぎたロティは伝道に対する変らぬ情熱と喜びをもって働き続けました。一人でも多くの人に福音を伝えたい、愛する中国の友に自分が語らなければイエスを知る機会がないのではないかと思うと、休養をとることもできなかったのです。こうして月日は過ぎ、人びとの心に蒔かれた福音の種は豊かに実り始めました。
ロティの休暇~日本への寄港 <1903年(63歳)~1904年(64歳)>
1903年1月、9年ぶりにヴューモントに戻ったロティを家族や友人が温かく迎えました。家庭に帰ったロティは、美しい自然の中で静かに瞑想の時を過ごしました。その間に南部バプテスト連盟の年会に出席し、懐かしい友人に会い、女性たちに中国の報告をしました。魂を注ぎ出して中国の伝道を語るロティに接した人たちは、大きな感動を受けました。中国のために自分を全く忘れて働くロティに触れた人たちは、外国伝道に対する幻を与えられ、主に対して献身を新たにするのでした。ロティを愛している人たちは、老年になって体力が衰えていくロティがもう一度中国に帰ることを気遣い、ある親しい友人がこの気持を彼女に告げたところ、ロティはきっぱりと答えました。「同情していただくより、むしろ喜んでいただきたいのです。もし中国に帰れないとしたら、どんなにみじめに思うでしょう」と。ロティの決意と勇気とを知っては、誰もアメリカで友人や家族に囲まれて静かに送る老後が幸福であるとは言えませんでした。
秋が来ると、ロティは再び中国に向かいました。故国の生活は楽しくても、中国を離れて心の淋しさを感じるロティにとって、アメリカは異国の地であり、中国がホームでありました。
1904年2月15日、船は出帆しました。静かな航海でした。日本に寄港した時、ここで働く宣教師を訪ね、とくにウィリングハム夫人との会合を喜びました。この夫人は結婚する前は登州に行くことになっていたと、外国伝道局から聞かされていたからです。日本訪問について、次のような感想をのべています。
「美しい日本!義和団のために日本に逃れてきたとき以来、私はこの国を心から愛しています。この国の人びとはここを訪れる人に不思議な魅力を投げかけます。心を開き、目を開いている人にはその特殊な魅力が感じられるのです。私もこの日本に魅せられている者の一人です。」
ロティは中国に戻りました。
ロティの女性観 <1905年(65歳)>
ロティは女性伝道を強調しました。過去30年間に、学校伝道も医療伝道も著しく発展したのに、女性を対象とした伝道は、まだ戸別訪問以上の域を脱せず、もっと本格的な女性への働きかけがなされなければならないというのが彼女の信念でした。従って、宣教団の会議ごとに「では女性のための伝道は」と問題を提出するのですが、いつも真剣に取り上げられないのです。同労者の観察によると、ロティの女性観は一世代進んだものでした。
1905年の秋には、ロティはまた登州でたった1人の女性宣教師になりました。この時「私はもう以前のようには働けなくなっています。」という短い手紙を書いただけで、相変らず精一杯の働きを続けていきました。ただ時々、手紙の中に体の衰えを感じさせるものがありました。
勉強と研究 <1905年(65歳)>
勉強と研究は昔からロティの好きなことであったので、中国の忙しい生活の中にも、本や雑誌に目を通して、世界の思想に触れ、文学、科学、芸術の方面に新しい知識を得ようと努力しました。また中国語もずっと先生について勉強していました。ある人が「中国にこんなに長くいて、まだ中国語の勉強が必要なのですか」と言うと、ロティは「どんなに勉強しても中国語の複雑な微妙な意味を完全に理解することはできません。宣教師としてよい働きをしようと思えば、どうしても先生について勉強しなければなりません。中国に長くいればいるほど、中国語の難しさがわかってきて、ますます勉強の必要を感じさせられます。」と答えました。
年をとって肉体的に休養が必要になってきた時、ロティは少しずつできた時間の余裕を勉強に充て、中国語の他に、10年前に「頭の整頓のため」といって始めたへブル語を真剣に読み始めました。また毎日規則正しく続けてきたギリシャ語による聖書研究も以前よりもっと時間をかけてするようになりました。どんなに夢中になれる素晴らしい仕事でも、それだけに打ち込んでいると、いつの間にか心が狭くなり、理解力も鈍ってくるので、精神生活の均衡を保つためには、毎日短時間でも仕事の圧力から解放されて、精神的に新鮮な空気を呼吸することが必要であることをロティは知っていました。
記録されていないこと <1908年(68歳)>
彼女の伝道の記録の中で、不思議にただ一つだけ欠けているものがありました。それは直接に彼女の教えを受けて回心した者についての報告でした。バプテスマのことは時々触れてありますが、それが彼女の働きの直接の結果であるとは言わず、いつも中国人のクリスチャンの伝道の結果であると書きました。それほど彼女は中国人の働きの中に、自分を没入していたのです。しかし彼女の働きの実りは、年とともに顕著なものになってきました。
初めは実りが少なかった北中国の伝道も信者が村や町に広がるにつれて急速度に発展し、今は豊かな刈り入れの時となりました。伝道精神は北中国の教会にみなぎり、町を根拠地として西へ西へと広がっていきました。ロティはこの伝道の大きな推進力になっていましたが、自分に栄誉を求めることなく、ただ仕事の中に「おのれを失って」いきました。聖書の中の「わたし(キリスト)のために自分の命を失う者は、それを救うであろう」という御言葉の真理を、ロティは身をもって証明したのでした。
1909年の1月、悲しい事件が起こりました。夕食のときに最愛の妹エドモニアが急死したという電報がきたのです。ロティは一緒に住んでいた新しい宣教師に何も言わず、1人悲しみを心に秘めていましたが、悲しみの時に心の支えになった同労者の同情と愛情に深く感謝していました。
女子教育の仕事 <1908年(68歳)~1911年(71歳)>
ロティは今や70に近く、足どりはやや遅くなったように見えましたが、相変らず朝から夜まで忙しく働き続けました。彼女が今、専念している学校の仕事に関する報告書には、いつも喜びがあふれていました。特に女子教育に関しては、昔の夢が次第に実現してゆくことが彼女に深い満足感を与えました。女子の高等教育を通して北中国の人びとの生活の中心に触れていくことができるという信念の下に、彼女は今日まで機会あるごとに女子教育の必要を強調してきたからです。
学校教育に対する中国人の態度も大きく変わっていきました。女子教育の必要が次第に中国人によって認識されるとともに、バプテストの学校にも中流以上の子弟が来るようになり、1911年の終りには、女の子どものために5つ、女性のために1つの昼間の学校ができていました。このことを夢みて、忍耐強く努力して来たロティは「仕事の喜びが日々大きくなっていきます」と書きました。
その年の秋に新しい女子の学校が開かれることになりましたが、ロティは外国伝道局に資金がないことを知っていたので、自費で経営することにしました。最初から15人の女子が入学しました。新しい学校ができるとそこが教会学校の教室となり、やがて礼拝がもたれるようになりました。こうしてキリストは、学校を通して登州の人びとに宣べ伝えられていったのです。
開拓時代は過ぎ去り、ロティは今静かに働きの実りを楽しむことができるかのように見えました。
闘いの最中に <1911年(71歳)>
1911年11月には政府軍と革命軍の戦いが山東省一帯に広がったので、アメリカ領事館は外国人排斥運動が起こるのを恐れて、宣教師に芝罘(しふう)まで退去するよう指示しました。アイヤーズ博士は、戦争の時ほど病院の伝道の使命が大きいことを知って、アメリカ市民として保護される権利を放棄して、もう1人の宣教師と共に病院に戻ることを決心しました。
戦闘は続いていましたが2人は何の障害もなく町に入ることができました。病院に来てみると意外なことが起こっています。場所という場所には傷病兵が一杯詰まっているのですが、すべては驚くほど整頓されていて、各教会から来た女性たちが看護婦として、かいがいしく働いています。中に入ってみるとロティがいるではありませんか。女性たちと一緒にせっせと包帯づくりをしています。「どうしてここに? 登州におられるとばかり思っていました。あそこなら安全ですから。」と言うと、ロティはすぐ言葉を続けて「この非常時に中国のクリスチャンが困ってはいやしないかと思って、私のできるお手助けをしに来ました。」と答えました。顔には微笑が浮かんでいました。
男性の宣教師が帰ってきた後、ロティはもう一度登州に帰ろうとしました。しかし登州への道はもう戦場になっているので帰ることは危険です。皆真剣に引き止めました。しかしロティには皆の知らない安全な道があるのです。彼女は傷病兵を収容する責任者の将校を呼びました。この人は昔はロティの生徒で、今は革命軍の指導者の1人です。この人を通じて革命軍の本部に通知し、革命軍の本部から政府軍の指令官に通達して、ロティがその日の午後、両軍の戦線を通って登州に帰ることを伝達しました。
両軍の兵士たちは彼女が戦争中に捧げた真心からの奉仕を知っていました。また両軍の指導者の中に、彼女を知っている人たちがいました。その午後、登州街道には砲声が聞こえず、ロティは無事「小さな十字路」の家について、その夜ぐっすり休みました。
バプテスト婦人部設立と外国伝道局の支援停止、飢饉の悪化 <1911年(71歳)~1912年(72歳)>
開拓者の仕事は続きます。今までは2,3の教会の女性たちが分かれて集会をしていましたが、1911年北中国に「バプテスト婦人部」(婦人宣教団体)が組織されることになり「小さな十字路」の家に町や村の教会の女性代表が集まり、ロティを初代の会長に選挙しました。こうして伝道のための女性の結束が実現しました。これこそロティの長年の夢であり幻であったのです。
前途には暗い道が横たわっていました。中部中国に始まった飢饉は北中国に広がり、次第に平度(へいど)に近づいてきました。外国伝道局に救援を頼んでも資金がありません。伝道局にはまだ負債があるのです。エドモニアが死んでから、外国伝道局に貸してあるお金の利子は、そのまま伝道局の負債返済のために捧げてきましたが、飢饉が酷くなってからは利子を全部難民の救済にあてる他に、自分の収入の大部分を支出するようになりました。
飢饉が悪化するとともに天然痘やその他の恐しい疫病が流行し始めました。ロティは種痘を受けていたため病気にならずにすみましたが、中国人の友人がばたばたと倒れていきました。1912年、平度が飢饉に襲われたという知らせが届きました。飢饉に貧している平度のクリスチャンは助けを求めてきます。ロティの心は重くなるばかりでした。
中国の飢饉と外国伝道局の負債。この精神的重圧の下に、ロティの体は目に見えて衰弱していきました。夏以来耳の後ろにできた腫物が痛み出し、局部的に治療しても、彼女の心に覆いかぶさった暗黒の雲を払いのけることはできませんでした。彼女は上海銀行の預金を全部引き出して飢饉を救済するために働いている人たちに送りました。1912年8月、最後の預金を引き出したとき、預金帳に一行書き残しました。「私のような淋しさを経験する宣教師が決してないように!」と。
山の中の洞窟に連れて行ってほしい <1912年(72歳)>
日ごとに数千の生命を奪っていく飢饉、そして義援金を送ることのできない伝道局。やがて飢饉が宣教師にも迫ってくるのであろうと思った時、ロティは昔の人が70を過ぎた老人を洞穴につれていったあの話を思い出しました。「私ももう70を過ぎている。この年をとった私が食べて生きていくためのお金を、若い前途のある宣教師たちに回すのが本当ではないか。」こう考えたロティは、どうか自分を登州近くの山の中にある洞穴に連れて行くようにとしきりに頼むのでした。
友人の宣教師が彼女を黄県(こうけん)に連れて行きました。ここは宣教師が多いので、彼女の気持も少しは晴れるのではないかと思ったのです。しばらくの間、彼女は快活そうに振舞いましたが、これは心の奥の深い悲しみを包み隠すためのもので、悲痛な思いは彼女の生命をむしばんでいきました。外国伝道局にはお金がない。宣教師はこの飢饉に対して何もすることができない。平度の人たちは餓死していく。絶望に打ちのめされたロティは、飢饉とともに北中国における南部バプテストの伝道事業が消え去っていくかのように思えました。
黄県で静養したロティは少しずつ元気を取り戻したのでしょうか、しきりに登州に帰りたいと願うので、友人もこれ以上引き止めることはよくないと考えました。ロティにとって一番幸福な場所は彼女のホーム、登州であることを知っていたからです。
栄養失調 <1912年(72歳)>
12月のはじめロティはまた倒れてしまいました。今度の症状は非常に複雑で、友人たちには病気の原因が分かりませんでした。しかし、医者は一目見てロティに何が起こっているかを知りました。餓死です。彼女は開拓伝道の困難を克服してきたあの勇気をもって、彼女のできる範囲で飢饉に苦しむ人を助けようと決心しました。彼女が何をしているか、一緒に住んでいる人が気づかない程に、静かにその決心を実行していきました。あの愛する平度のクリスチャンが餓死していくなら、自分も食物を口にしない。もし外国伝道局の負債が返済されないなら、これ以上借金で生きて行かない……これが彼女の覚悟であったのです。
ロティの生命を何とかして引き止めたいと、友人たちは心を尽くして看病しました。微笑みが彼女の顔に戻ってきましたが、北中国の苦しみを思う彼女の心は、深い悲しみに沈んでいました。北中国の食糧事情が少しずつ好転していくという知らせも、受け入れることができないで、彼女の心は深い憂うつに閉ざされていました。
今は彼女を救う道はただ一つ、本国に帰すことでありました。飢饉の地から遠く離れ伝道の苦労から遠ざかったときに、回復の希望もあるかと思われたのです。
帰郷 <1912年(72歳)>
1912年12月20日、莱州(らいしゅう)から休暇で帰る看護婦の宣教師に付き添われて、ロティは上海を離れ、サンフランシスコに向かいました。
1912年12月24日、クリスマスの前夜、船は静かに神戸の港にいかりをおろしました。冬の日ざしが明るく船室の窓から差し込んできました。看護婦は枕もとに座って、静かに眠り続けるロティの顔をじっと見守っています。やがて、ロティの体がかすかに動きます。誰かを探しているような様子です。唇が動き何ごとかをつぶやきます。看護婦がかがんで口もとに耳を当てると、彼女は中国のクリスチャンの名を呼んでいるのです。痩せ細った手を中国の挨拶をするように組み合わせます。幾たびも唇が動き、手が合わされました。彼女の口からもれる名前は、昔彼女から天国の話を聞き、彼女より先に天国に帰っていった人たちでした。この中国の友が今、天の彼方より訪ねて来て、彼女の魂を天国に連れ去っていくのでしょう。
こうして手を中国風に組み合わせ、顔に再会の喜びを浮かべ、先に召された友の名を呼びながら、ロティ・ムーンの魂は天国に帰っていきました。
ロティの召天 <1913年>
ロティ・ムーン! 才能豊かなヴァージニアの娘、神が中国に贈られた尊い贈り物、このロティはクリスマスの前夜に天国に贈られたクリスマス・プレゼントでもあったのです。
日本の法律に従って遺体は火葬に付され、遺骨を入れた小さな壷が本国に持ち帰られました。1913年1月28日、木曜日の午後、ヴァジニア州リッチモンドで葬儀が行われました。40年間、外国伝道局の奉仕者として異国の地に働いたロティの功績を覚えて、親族、友人が多数集まりました。それは偉大な生涯を閉じる厳粛な礼拝でありました。
翌日彼女はクルーの松の木の下に、彼女を愛する人たちによって葬られました。墓の側に松の木が植えられました。墓の上にヴァジニアの女性たちは美しい大理石を置きました。その上に彼女の名前と「1840―1912年」という二つの記念すべき年号が記してありました。そしてその下に「40年間、中国に伝道した南部バプテスト連盟の宣教師」と彫ってありました。そして最後に書き添えてあるのは「死に至るまで忠実なる者」という言葉でありました。
ロティ・ムーン・クリスマス献金
この偉大な生命は生き続けます。
南部バプテストの女性たちは、何とかして後に続く世代の人たちの心に、彼女の名前を刻みたいと願いました。彼女こそ、バプテスト婦人部(婦人宣教団体)の結成のとき、外国伝道を支えるためにクリスマス献金をするという、はっきりと指示を与えたその人であり、この献金が世界伝道のために大きな働きをしてきたことを覚えて、バプテストの女性たちはこのクリスマス献金を「ロティ・ムーン・クリスマス献金」と呼んで、彼女の名を永遠に記念することにしました。この名称は誠にふさわしいものであります。なぜならロティ・ムーンはクリスマスの頃に最初に中国に行き、クリスマスの頃に最後に中国を離れたからです。こうして彼女の生涯の物語は年ごとに繰り返し繰り返し語り伝えられ、また彼女が全生命を懸けて仕えた主キリストの足もとに年ごとに愛と犠牲の捧げものが置かれて、今はロティー・ムーンの名前は伝道への献身を象徴するものとなりました。
中国では <1915年>
そして中国では「小さな十字路」といっていた通りの端に石碑が建てられました。この美しく輝く大理石の記念柱をたてるために、中国人が3年かかって愛の捧げものをしたのです。その上には三行の中国文字が書かれています。最初の行は、記念碑が立てられた年号「1915年」で、二行目は「アメリカの宣教師、ミス・ロティ・ムーンの愛を記念して」と書かれ、最後の行には「登州の教会は永久に忘れることができない」と書いてあります。こうして中国のクリスチャンは後の世代の人たちに、愛の神とその御子、イエス・キリスト・世界の救い主を伝えるために、祖国を離れた偉大な宣教師の愛を語り伝えようとしたのです。
そればかりではありません。彼女が導いた人たちの信仰は生き続けます。人から人へ、魂から魂へと伝えられていきます。「出て行って世界のすべての人に福音を宣べ伝えよ」というイエスの命令を、最後まで、実に死に至るまで守り抜いたロティ・ムーンの献身の生涯は常に人びとの心に一つの決心を促すのです。「あなたも行って、神のこの素晴らしい愛を宣べ伝えなさい」と。